海軍甲事件 Operation Vengeance

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孔雀は時間通りに行動するものと思われる。尻尾をウチワで煽られたし

海軍甲事件とはの1943年(昭和18年)4月18日に山本五十六連合艦隊司令長官がアメリカのP-38ライトニング戦闘機の待ち伏せ攻撃にあいブーゲンビル上空にて戦死を遂げた事件の事を言う。アメリカの作戦名はOperation Vengeance(復讐作戦)と名付けられた。ハセガワの1/72 ブーゲンビルコンボでこの海軍甲事件の1シーンを表現してみました。海軍甲事件の経緯とそれに関わった主な人物にクローズアップしてみたいと思います。

まず作品の紹介を行って行きたいと思います。一式陸上攻撃機 11型は705航空隊の所属で山本五十六連合艦隊司令長官が搭乗しています。右エンジンに銃撃を受け黒煙を吐いています。ロッキード P-38 ライトニングG型は第13航空軍第347戦闘グループ第339戦闘飛行隊のレックス.T.バーバー中尉機で山本長官機に銃撃を加えた後山本長官機すれすれに飛行している。零式艦上戦闘機22型は第204航空隊で第1小隊3番機の杉田庄一飛行兵長機で長官機に攻撃を加えたP38を追尾しているが眼下に黒煙を吐いている長官機を目の当りにしている心境は如何許りのものがあるだろうか

海軍甲事件に至るまでの経緯
海軍甲事件が発生した昭和18年の状況は日米の航空戦力の差がますます開き、ソロモン諸島の制空権は完全にアメリカが握っている状況。
長官が戦死してから2ヶ月が過ぎた時期の航空戦力だが日米の戦力差が3倍以上となっている。しかも米軍は陸軍航空隊に加え海軍・海兵隊が綿密に連携しているのに対して日本陸海軍は縄張り意識が強く、しかも満州より転進してきた第6飛行師団にとっては洋上飛行訓練はまったく行った事はなく遠く離れたガダルカナルまで攻撃を加えるのは難しい状況で、ほぼ海軍第1基地航空部隊が孤軍奮闘している。ただし山本長官が戦死直前のい号作戦で小沢治三郎中将の空母機動部隊航空戦力160機が加わっているが航空戦力はアメリカが圧倒的に有利で制空権はもはやアメリカの手中にあるといっても過言ではない状況でした。
い号作戦
(写真は基地航空隊の零戦21型と空母瑞鶴飛行隊の零戦22型が翼を並べている。)
い号作戦とは昭和18年4月7日から16日にかけて山本五十六連合艦隊司令長官がラバウルに進出し陣頭指揮をとり第3艦隊の空母艦載機を陸上に揚げ基地航空部隊と合わせ、ソロモン諸島およびニューギニア方面の連合軍戦力を撃破せんとした航空戦の総称である。い号作戦に参加したのは第21航空戦隊・第26航空戦隊の190機・小沢第3艦隊長官直率の第1航空戦隊および角田中将麾下の第2航空戦隊の空母部隊160機の合計350機であった。一応作戦は成功と言うことで終了しているが戦果としては駆逐艦1隻、コルベット艦1隻、給油艦1隻、輸送船2隻を撃沈し、25機の連合軍飛行機を破壊したが日本は40機を失い特に空母搭乗員の損失は、日本の空母部隊の戦力を大きく低下させたのである。
復讐作戦
い号作戦終了後、突然山本長官はブイン・ショートランド方面に前線視察に行くと言い出した、小沢第3艦隊司令長官や城島第11航空戦隊司令官は前線視察は危険だと中止を強く進言したが聞き入れなかった。13日夕刻各基地宛に18日に「0600中攻にてラバウル発、0800バラレ着・・・」と暗号電文が発せられた。日時、場所などの山本長官視察の暗号電報を受信したのは日本だけではなかった、アリューシャン列島ダッチハーバーのアメリカ海軍無線傍受所でもキャッチされた。その内容は直ちに解読され情報参謀のレイトン中佐から聞かされた太平洋艦隊司令長官チェスターニミッツ大将はウイリアム・ハルゼー中将に作戦準備を指示しソロモン方面航空部隊司令官マーク・ミッチャー少将にも同様の命令が下った。さらにはノックス海軍長官に報告され、深夜ルーズベルト大統領と会談し山本長官機撃墜計画が決定した。ニミッツは「復讐作戦」(Operation Vengeance)と名づけ、孔雀は時間通りに行動するものと思われる。尻尾をウチワで煽られたしと命令電文を発した。
運命の35分差
 昭和18年4月18日。運命の朝がやってきた。この日長官機直援隊の搭乗割は

指揮官兼 第一小隊長 :森崎武 中尉
二番機:辻野上豊光 一等飛行兵曹
三番機:杉田庄一 飛行兵長
第二小隊長:日高義己 上等飛行兵曹
二番機:岡崎靖 二等飛行兵曹
三番機:柳谷謙治 飛行兵長
の6機の零式艦上戦闘機

山本長官を乗せる第705航空隊所属の一式陸上攻撃機は1番機には
機長兼主操縦士:小谷立 飛行兵曹長
副操縦士:大崎明春 飛行兵長
連合艦隊司令長官:山本五十六大将
副官:福崎昇 中佐
軍医長:高田六郎 少将
航空参謀:樋端久利雄 中佐

そして2番機には宇垣参謀長・北村主計長ら5人が搭乗した。山本長官機は何のトラブルもなく定刻通り06:00に先ず2機の一式陸上攻撃機が、続いて直援の6機の零戦が離陸した。

山本長官機が離陸した35分前に1,000km離れたヘンダーソン飛行場では0525ミッチェル少佐機を先頭に次々と離陸していった。トラブルにより2機が落伍した為、16機となったP-38は迂回進路をとりつつブーゲンヴィル島を目指した。
襲撃

6機の直援機で唯一生き残った柳谷謙治飛行兵長と宇垣参謀長の証言を元に進めていきます。危険の多い敵基地攻撃や強行偵察ではなく長官の護衛、しかも通いなれた”ブイン街道”なら、まず平穏飛行になるだろう。のどかな気分で飛行を続けた、あまりに気持ちが良いので陸攻内で宇垣参謀長が居眠りをしているほどだった。
0745バラレ着の予定」と書かれた紙が林機長より宇垣参謀長に手渡された。「あと15分か」腕時計を見てつぶやいた瞬間異変が起きた。陸攻が突如エンジンの回転数を上げながらジャングルに突っ込み始めた。柳谷飛行兵長の証言では森崎中尉機が機首を下げて突っ込んでいく。私の小隊の一番機も前方に向けて降下を始めた。『なにか変わったことが起こったな』と周りを見回したら、いた!右前方約1500メートルの高度に一群の飛行機が!しかもこちらに向かって近づいてくる。
敵のP-38だ!?』まさかと思っていた敵の来襲だ!長官一行が乗る陸攻は急角度で機首を下げ、全速力でブイン基地に逃げ込みを開始した。敵機は長官機目がけて右回りで上昇してくるのに対してそうはさせじと増槽を落として遊撃態勢に入った。

山本五十六長官の最期
柳谷飛行兵長の証言では『ふと長官機の方を見た私は、ハッとした。既に長官機は片方のエンジンから黒煙を吐いているのだ。少し離れて参謀長が乗る2番機も火を吐いている。私は呆然としてそれを見た。あまりにも鮮やかな、敵の遊撃だった。これはいったい夢なのだろうか?目の前が暗くなっていく感じだった。
森崎中尉機が煙を吐く長官機に近づいていった。陸攻の窓から山本長官の姿が見える。草色の第3種軍装を着て、指揮官席に端座している。純白の手袋をまとった手で軍刀をしっかり握り、泰然自若たる姿で瞑目しているようだ。
その時、それまで盛んに黒煙を吐いていた長官機はグワッと大きな真紅の炎に包まれた。炎は機体にまつわりつくように急速に広がりぐらりと傾いて平衡を失った機体はたちまち錐揉み状態になり、深いジャングルの中に墜落してしまった。ブイン基地より数マイル北の地点であった。』(雑誌『丸』所載 柳谷謙治氏手記より)
その後・・・
山本長官が戦死した1ヵ月後の5月21日に大本営発表のラジオ放送が全国に流れた。『連合艦隊司令長官海軍大将山本五十六は本年4月前線において全般作戦指導中、敵と交戦、飛行機上にて壮烈なる戦死を遂げたり。後任には海軍大将古賀峰一新補せられ、既に連合艦隊の指揮を執りつつあり』6月5日、葬儀委員長を米内光政大将とし国葬が執り行われた。
山本長官を仕留めた側と護りきれなかった側には天と地ほどの差があった。まず勝者とも言うべきアメリカパイロットのミッチェル少佐達は一階級昇進し海軍十字章を授与され英雄扱いになったのに対して日本パイロットの運命は悲惨だった。あたかも山本長官の死の責任を負わされたかの様にほぼ毎日のように激戦地にかり出され死に場所を探す様な日々だった。そして2ヶ月の間に全身に大火傷をおった杉田と右手首を失った柳谷は内地の土を踏むことが出来たが、他の4人は相次いで帰らぬ人となった。
参加機

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三菱 一式陸上攻撃機11型 山本長官機

三菱 零式艦上戦闘機 22型 杉田飛行兵長機

ロッキード P-38 ライトニング バーバー中尉機