ロッキード P-38 ライトニング バーバー中尉機 Lockheed P-38 Lightning


作品は山本長官を仕留めたと言われている レックス・T・バーバー中尉機で彼の機体”ディアブロ号”が不調のため同僚のボブ・プティ中尉機”ミス・ヴァージニア号”を借りて出撃した。まさにミス・ヴァージニアは幸運の女神となった。







ロッキードP-38ライトニングは1937年米陸軍の高高度高速単座戦闘機の開発を各メーカに求めロッキード社がツインテールブーム(双発・双胴)と言うユニークな形状の戦闘機XP-38を開発し要求をはるかに上回る高性能の為P-38として正式採用される。先進技術としてターボチャージャー(排気タービン過給器)を備えたのは機種記号「P」=パースート・プレーン(追撃機)と言う意味で高高度から来襲する敵重爆撃機を迎撃するインターセプター(局地戦闘機)として能力を求めた。だが実際にはターボチャージャーを装備しても高空性能に劣るアリソン・エンジンの為、高高度の性能は良くなかったと言われるが、爆撃機の援護が主任務で迎撃機が充実している欧州戦線と違い、太平洋戦線ではそれほど高い高度は必要なく、中高度帯での運動性は良好で一撃離脱戦法により多くの日本機を撃墜している。

P-38 G型データ 要目・性能
全長:11.53m
全幅:15.85m
全高:3.00m
発動機:アリソン V-1710-51
離昇出力1,325hp
自重:5,534kg
最大速度644km/h(高度7,600m)
上昇率:6,100mまで8.5分
実用上昇限度:11,890m
航続距離3,862km(増槽使用時)
武装:20mm機関砲1門・12.7mm機関銃4挺

迎撃機として開発されたP-38だが、大きな特徴として航続距離3,862kmの長さがある。例えば同時期のアメリカ陸軍機でカーチス P-40が航続距離1740km/P-39 エアラコブラが1,770 km・大戦後半で燃料タンクの容量を増やしたP-47やドロップタンクの搭載したP-51などが登場するまで長距離援護機としてP-38が使用された。この長大な航続距離をもつP-38はイギリス基地から出撃する戦略爆撃機の援護機として優先的に第8航空軍に配備されるがドイツ空軍のフォッケウルフ Fw 190との戦いでは速度は同程度でも、機動性は遥かにフォッケウルフが勝り、しかも爆撃機の援護の為、行動に制限がかけられたP-38は苦戦を強いられた。しかも高空で飛行するとエンジン系統の故障が多く、ミッションの途中で引き返すアボート機が頻発した。また暖房がまったく効かないで、ヨーロッパの寒い空を飛び続けるのに不満が続出し1944年1月にP-51が配備されると第8航空軍から徐々に姿を消していった。


さて太平洋戦線に目を向けると優先的にヨーロッパ戦線に送られたが1942年初めにアラスカに少数機が配備された。6月に日本軍がアリューシャン列島のキスカ島とアッツ島を占拠し、ダッチハーバーの防空任務の為配備された。8月4日に偵察に来た日本の九七式飛行艇を撃墜して第二次世界大戦の初戦果をあげる。1942年8月に反撃の足がかりとしてソロモン諸島ガダルカナル島に上陸しラバウルから来襲する日本機と死闘を繰り広げることになるがソロモン方面にP-38が配備されるのは11月の事である。

日本軍との死闘
配備当初は、まだラバウル航空隊には技量の優れたベテランパイロットも多く、零戦相手に格闘戦を挑んではあっけなく撃墜されため、日本軍パイロットから『ぺろハチ』と揶揄されたが、一撃離脱戦法に徹すると状況は一変した。一撃離脱戦法とは雲や太陽光などを利用して敵機に気づかれない様に上方に近づき、急降下して反撃体制を取れないうちに一撃しそのまま降下を続けるか、または急上昇して敵の追撃を振り切り安全圏に離脱する戦法である。特に速度も速くなく防弾装備が貧弱で少ない被弾でも致命傷になる場合が多い日本軍機に対して有効な戦法で一撃離脱戦法を徹底することにより、組みやすい相手から、強敵になり多くの日本軍機を撃墜することになる。
(40機を撃墜したアメリカ軍No1撃墜王:リチャード・ボング大尉)
(ボングに次ぐ38機を撃墜したトーマス・マクガイア少佐)
アメリカ軍での撃墜王トップ2がこのP-38を愛機として日本軍機と死闘を繰り広げた。リチャード・ボング大尉は第一世界大戦の時のエドワード・リンケンバッカーが記録した26機撃墜記録を塗り替え米軍史上第一位のエースとなるが1945年8月6日最新鋭ジェット戦闘機P-80シューティングスターのテスト飛行中に墜落事故をおこし死亡した。だが現在に至るも彼の残した撃墜記録は破られていない。ボングのライバルであったトーマス・マクガイア少佐は1945年1月7日フィリピン・ネグロス島上空にて杉本明准尉の飛行第五十四戦隊の一式戦隼と交戦。ドロップタンクをつけたまま、低空で格闘戦を行い失速しジャングルに墜落して戦死してしまう。
復讐作戦
(ランファイアー大尉:左・ホルムズ中尉:中央・バーバー中尉:右)
  1943年4月18日山本五十六連合艦隊司令長官が前線視察に向かうと言う情報をキャッチしたアメリカ軍は山本機撃墜のためガダルカナル島の第13航空軍第347戦闘グループ第339戦闘飛行隊に命令を下しミッチェル少佐率いる18機のP-38は05:25にヘンダーソン飛行場を離陸した。
山本長官機襲撃部隊
総指揮官     ジョン・W・ミッチェル少佐
攻撃編隊 1番機  トーマス・G・ランファイアー大尉
     2番機  レックス・T・バーバー中尉
3番機  ベスビー・T・ホルムズ中尉
4番機  レイモンド・K・ハイン中尉
支援編隊  ルイス・R・キッテル少佐/ダグラス・S・カニング中尉/デルトン・C・ゴーク中尉/ジュリアス・ヤコブソン中尉/ロジャー・J・エイミス中尉/エヴァレット・H・エングリン中尉/ローレンス・A・グラブナー中尉/アルバート・R・ロング中尉/ウィリアム・E・スミス中尉/エルドン・E・ストラットン中尉/ゴードン・ワイタッカー少尉
出撃時にトラブルが発生した。ミッチェル少佐に選ばれた最精鋭の襲撃部隊の3番機と4番機のジョームズ・マクラナハン中尉機がパンクでジョセフ・ムーア中尉機が落下タンクの燃料系統不調により離脱した為、支援編隊からホルムズ/ハイン両中尉を攻撃編隊に急遽編入し16機のP-38で山本機が現れる空域に向かった。

 
 綿密な襲撃計画を作ったアメリカ軍だが山本機が時間通りに現れるかが問題だった。ミッチェル少佐は日本軍の対空監視所などを避けて、迂回コースを取ったためいくら航続距離の長いP-38でもギリギリの距離で長く滞空することが出来ない。山本長官機の飛行速度も頭に入れて超低空で進む。ブーゲンビル島で会敵しなければこれまでの努力が無駄に終わってしまう。予想時刻の07:35海岸線が見えたときカニング中尉が無線封止を破って『敵発見!11時方向上空』と叫んだ。いた!まぎれもなく高度1,400メートルに敵の一式陸上攻撃機2機そして上空に零戦3機さらに後方にもう3機が見えた。予想時刻と1分も違わない。まさに奇跡がおきた。
ミッチェル少佐率いる支援編隊は高度をとりつつ、攻撃編隊の支援にまわりランファイア大尉率いる攻撃編隊は右回りの弧を描きながら一式陸攻の前方を制しながら急上昇旋回し一式陸攻の後方に占位するように機動した
ランファイアとバーバーの証言
アメリカ陸軍公式記録から重要部分を抜粋して紹介します。ランファイアは攻撃編隊を率いて敵にやや接近し敵の飛行コースに平行しながら上昇角35度時速200マイルで急上昇した。敵陸攻と同高度に達しその距離が2マイルになった時補助タンクを捨てて時速280マイルで急旋回した。敵と1マイルまで接近した時敵は気付き陸攻は機首を下げその内1機は海岸線に逃走を図る。護衛の零戦が増槽タンクを捨てて、ランファイア機に向かって急降下してきた、すれ違いざまに零戦1機を撃破(実際には零戦の撃墜はない)残り2機と砲火を交えながら高度1800で反転急降下しジャングルをかすめて飛行してる陸攻を追った。ランファイアは陸攻の側面を銃撃し片翼が飛散し炎上墜落。バーバーは敵の零戦の妨害を受けつつ陸攻を補足撃破した。バーバー機の発砲により尾部が飛散した。その陸攻は半回転して背面姿勢のまま地上に90度で突っ込む形で墜落したモイラ岬付近の海上を離れて飛行している陸攻を発見。直ちに急行し銃撃し左エンジンから煙を吐かせた。ハインも銃撃したがバーバーの銃撃により敵の胴体が吹っ飛び墜落した。アメリカ公式記録では陸攻を撃墜したのは合計3機となる。これは明らかに誤りだ。最後に撃墜したのは多分宇垣機だと思われるのでジャングルに墜落した陸攻の撃墜記録が重複している。これが戦後長く続いた山本機を誰が撃墜したかの論争のきっかけになる。
ヤマモトをやったのは俺だ!

ガダルカナル島に帰還したランファイアが地上員たちに「俺がヤマモトをやったぞ」と叫んだときから”ヤマモトを墜とした男”の伝説が始まるだが2機の一式陸攻のどちらに山本長官が乗っているかは、アメリカパイロットが知るすべもなく、なぜ自分が撃墜した機が山本機だとわかったのか?山本機撃墜の伝説は終戦後1945年9月に米国各地で掲載されたランファイアの手記により、ランファイアが一躍戦争の英雄となった。そして山本機撃墜の功績と名声が大きな後ろ盾となり、空軍協会会長や空軍長官特別顧問・航空機メーカーの副社長などを歴任する。
 バーバーはランファイアが山本機撃墜の功績を独り占めしている事は許しがたく、抗議の手紙を送り公刊戦史の訂正を求めたが受け入れられなかった。しかし年を経るに従い第2次世界大戦の出来事に冷静な目が向けられる様になった。1973年アメリカ空軍は戦史の再評価を行いその結果ランファイアとバーバーに山本機撃墜の功績を与えた。山本機を護衛し戦後生き残った柳谷謙治氏の証言や山本機の残骸が発見され、ランファイアの手記とは大きく異なり、むしろバーバーの証言に近く、バーバーこそが山本長官機を撃墜した事が強く示唆されたが、公式記録は覆らず「ランファイアとバーバーの共同撃墜」と言う事になっている。
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