戦艦:三笠 battleship MIKASA



敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ聯合艦隊ハ直チニ出動、コレヲ撃滅セントス。本日天気晴朗ナレドモ浪高シ
1905年(明治38年)5月27日旗艦三笠に「皇国ノ興廃、コノ一戦ニ在リ。各員一層奮励努力セヨ」と有名なZ旗が翻りバルチック艦隊に艦隊決戦を挑む。連合艦隊はどのような戦いをしたのだろうか?戦艦三笠と日本海海戦に関して見ていきたいと思います。
戦艦三笠は1902年(明治35年)3月1日に敷島型戦艦の四番艦としてイギリスにて竣工し40口径30.5センチ連装砲2基4門を備え装甲にはクルップ鋼229mmと他の敷島型3艦に比べ防御力が強化された。日露戦争では連合艦隊旗艦として東郷平八郎連合艦隊司令長官が座乗し、主力艦同士の艦隊決戦では海戦史上稀有な一方的な展開となり日本に勝利をもたらした。


性能諸元
竣工:1902年3月1日
全長:131.7m
全幅:23.2m
基準排水量:15,140トン
機関:15,000馬力
速力:18ノット
乗員:860名
兵装:
40口径30.5cm連装砲2基
40口径15.2cm単装砲14門
40口径7.6cm単装砲20門
45センチ魚雷発射管4門
装甲:
舷側229mm
甲板76mm

日露戦争における国力と海軍力の差
 帝政ロシアは世界最強の陸軍国と言うだけではなく海軍力や国力は日本と比較にならないほど強国だった。
開戦前の日露両国の比較日本ロシア
陸軍歩兵156個大隊
騎兵55個中隊
火砲636門
総兵力15.8万人
歩兵1740個大隊
騎兵1085個中隊
火砲1200門
総兵力207万人
海軍戦艦6隻
装甲巡洋艦6隻
巡洋艦12隻
総トン数26万t
戦艦18隻
装甲巡洋艦16隻
巡洋艦10隻
総トン数80万t

(歴史群像 日露戦争 開戦前両軍の兵力より抜粋)

日本は徴兵などにより日露戦争時役100万人を動員しロシア極東軍の兵力に対抗した。海軍は太平洋艦隊とバルト艦隊などに兵力が分散されていたが太平洋艦隊だけでも日本艦隊と同程度の戦力がありこれにバルト艦隊(バルチック艦隊)を加えると優に倍以上の戦力となる為に開戦と同時にロシア太平洋艦隊(旅順艦隊)の撃滅が連合艦隊にとって最重要課題となっている。

 三笠の主要兵装
主砲: 四十口径 三十糎連装砲 2基 4門

副砲:四十口径 十五糎単装砲 14門


補助砲:四十口径 八糎単装砲 20門

艦橋

日本海海戦の時に東郷司令長官や秋山参謀などがいた羅針艦橋に立つとバルチック艦隊が見える気がする。その時モッキーは右手を高く上げ左へ半円を描くように手を振り下ろした(・・・頭の中で)
さすがに周りに人がいるので、本当にやったら、この人、頭が逝っちゃってると思われる(笑
黄海海戦
日本海海戦の前に黄海海戦について少し触れておきたいと思います。何故ならこの海戦がなければ日本海海戦の大勝利がなかったかも知れない。
連合艦隊は当面の脅威である旅順艦隊の撃滅を目指していたが旅順艦隊はなかなか要塞砲の射程圏外には出てこない。旅順港を封鎖する為、広瀬武夫少佐の閉塞作戦もことごとく失敗しロシア艦隊も挑発には乗ってこない。
しばらく膠着状態が続いていたがマカロフ爺さんの愛称で親しまれていたマカロフ司令長官が日本海軍が敷設した機雷に触れて戦艦ペトロパウロフスクと共に海に沈み後任のウィトゲフト少将は防備の固い旅順港にますます引きこもり、湾外に出ようとしなかった。
しかし乃木第3軍が旅順要塞に迫り艦隊がこのまま湾内にとどまる事が危険と判断した為ウラジオストックに回航する事となりウィトゲフトは旗艦ツェザレウィッチを先頭にレトウィザン、ポベーダ、ペレスウェート、サヴァストーポリ、ポルターワの戦艦6隻・巡洋艦4隻からなる艦隊で、旅順港を出港した。
敵艦隊港外に出づ!」1904年(明治37年)8月10日、連合艦隊が待ちに待った内容の電文が旗艦三笠に届いた。東郷はただちに戦艦4隻中心とした艦隊を率いて出撃し旅順艦隊との決戦に臨んだ。

黄海海戦の写真

ウラジオストックに逃げたいロシア艦隊は消極的な戦闘で必死に逃走を図る。追撃する連合艦隊は徐々に敵との距離を縮め、ついにロシア艦隊を射程の捉えた。
その時連合艦隊は”丁字戦法”を行う。
敵先頭艦を猛射するも、後続艦に艦尾方向にあっさり逃げられてしまう。ロシア艦隊と3万メートルの距離を引き離され戦闘は中断するも速度に勝る連合艦隊は追撃し約2時間後に敵艦隊と7千メートルで再び砲撃を開始。18時37分に三笠の放った主砲弾が敵旗艦の司令塔付近に命中。ウィトゲフト以下幕僚は戦死し操舵員も舵輪寄りかかり絶命。その重みで舵輪が左に回り旗艦ツェザレウィッチは左に回頭し始める。後続艦は戦術上の転針と信じ従い、やがて旗艦は見方の艦列に突っ込んだ。ロシア艦隊は大混乱に陥り陣形が大きく乱れた。
好機と見た連合艦隊は大攻勢に出て包囲猛射を加えるもロシア艦隊は必死に逃走を続け、やがてあたりは闇に包まれ東郷長官は20時25分攻撃の中止を下した。
旅順港に逃げ延びた艦隊の大半は大きく損傷し軍艦としての機能を失い戦力としては残っていなかったが、その事を知らない東郷長官はまだ旅順艦隊は健在との認識となりその後乃木第3軍による旅順総攻撃が行われ、永久堡塁に無謀な突撃を行い屍の山を築いた。

丁字戦法の問題点

丁字戦法は敵に対して射撃可能な全火力で砲撃するので効果的の様にも思われるが、最大戦闘速力で進む双方の艦隊が砲撃できる時間は僅かで先頭艦に打撃を加えても後続艦を攻撃する頃にはもう過ぎ去っている。しかも敵が消極的な行動をとる場合は艦尾方向に逃げられる事になる。丁字戦法が有効なのは太平洋戦争のレイテ沖海戦で狭いスリガオ海峡においてオルデンドルフ少将の戦艦部隊が西村中将の艦隊を壊滅させた戦いの様に逃げ場がなくしかも積極的に突進する敵に対して待ち構える場合や明らかに速力が勝っており反復攻撃が行える時で、それ以外の場合は有効的な戦法かは疑問が生じる。

バルチック艦隊出港す
マカロフ提督の死・黄海海戦で事実上ロシア太平洋艦隊が壊滅した事により増援の為、バルト海艦隊を第2・3太平洋艦隊に編入し司令長官にロジェストウェンスキー少将(航海中に中将に昇進)をあて1904年(明治37年)10月15日リバー軍港を出港した。いわゆるバルチック艦隊である。戦艦8隻を中心とした総勢38隻の大艦隊の1万8千浬に及ぶ長い航海は、まさに死への旅路となった。
バルチック艦隊戦艦群
旗艦スワロフ
アレクサンドル3世
ボロジノ
アリョール
オスラビア

ナワリン

シソィ・ウェリキー

ニコライ1世

日本海大海戦
「バルチック艦隊は5月14日ヴァン・フォン湾を抜錨し北上を開始す」との情報を最後に消息は不明となった。宗谷海峡か津軽海峡か対馬海峡かどのコースを取るのか、連合艦隊にとっては最も重大な問題となった。
1905年5月27日午前2時45分哨戒艦信濃丸が波間に揺れる灯火を発見。確認のため接近するとバルチック艦隊のど真ん中に紛れ込んでいた。信濃丸は運命の電文を発する「敵艦隊203地点に見ゆ」三笠が警電を受信したのが午前5時5分。東郷長官は全艦隊に出動を命じた
敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ聯合艦隊ハ直チニ出動、コレヲ撃滅セントス。本日天気晴朗ナレドモ浪高シ
三笠を先頭に第1戦隊(敷島・富士・朝日・春日・日進)第2戦隊(出雲・吾妻・常盤・八雲・浅間・磐手)第4戦隊(浪速・高千穂・明石・対馬)が進み左舷南方にバルチック艦隊をとらえた。三笠の檣頭にかの有名なZ旗がひるがえったのは午後1時55分。
皇国ノ興廃、コノ一戦ニ在リ。各員一層奮励努力セヨ

 敵艦隊との距離が急速に縮まっていく。砲術長の安保少佐が思わず声をあげる
「もう8500メートルでありますが・・・」東郷は沈黙を守っている。
安保は叫んだ「もう8000メートルになります。どちら側で戦闘をなさるのですか?」
東郷は無言のまま右手を高く掲げるや左方に大きく半円を描いた。
参謀長の加藤少将が命令を下す。「艦長!取り舵いっぱい」
時に14時5分。海戦史に名高い敵前大回頭の始まりである。
(歴史群像 日露戦争 日本海海戦 図解より)
 14時8分。彼我の距離7,000メートル。敵旗艦スワロフの主砲が咆哮し、それを合図にロシア艦隊が砲撃を開始した。この敵前大回頭は一つの大きな賭けでもあった。回頭中の連合艦隊は砲撃することができず、敵から見ると連合艦隊は1点にとどまっている様に見える。まさに格好の標的となっている。
だがロジェストウェンスキーはこの絶対的チャンスを生かすことが出来なかった。
直前の隊形変換の失敗により新鋭のボロジノ級からなる第1戦艦隊は第2戦艦隊の陰となり思うように砲撃が出来なかった。

連合艦隊の反撃
敵の猛射に耐えていた旗艦三笠の反撃が始まった。スワロフとの距離6,400メートル。
満を持していた三笠の主砲および右舷砲門が一斉に火を噴いた。後続艦も回頭を終えるや相次いで砲撃を始める。第1・第2戦隊合計127門の砲弾が旗艦スワロフとオスラビアに着弾した。集中砲火にさらされた両艦は炎に包まれ戦闘力を奪われる。ロジェストウェンスキー中将も敵弾により重傷を負った。敵旗艦を撃破したのち後続の艦に砲撃を移しボロジノ・アレキサンドル3世も大火災が発生した。戦端を開いてわずか30分で大勢は決した。
この戦いで旗艦スワロフ、オスラビア、ボロジノ、アレクサンドル3世の4隻の戦艦が沈み、他に巡洋艦1・運送船1・曳船1を失い、病院船2隻を拿捕した。逃げ惑うバルチック艦隊に連合艦隊は追撃の手を緩めず、日没後は駆逐・水雷艇隊の夜戦となり、戦艦ナワリン、シソイ・ウェリキーの2隻と巡洋艦2隻を沈められる。
一夜明けた28日、鬱陵島付近で待ち構えた連合艦隊に捕捉され、ネボガトフ少将は白旗を掲げて降伏の意を示したが連合艦隊は砲撃を続けた。
秋山真之中佐は東郷長官に「長官、武士の情けであります。発砲をやめて下さい」と詰め寄った。しかし東郷長官は薩摩言葉で「本当に降伏すっとなら、その艦を停止せにゃならん。現に敵はまだ前進しちょるじゃないか」国際法では降伏は機関停止となっている。
ネボガトフもその事に気づき機関を停止し東郷長官も砲撃中止を命令し日本海海戦の幕は閉じた。
この戦いでバルチック艦隊38隻中、戦艦6隻を含む20隻が撃沈され、捕獲されたもの6隻、自沈や中立国に逃げ込み武装解除されたものなど壊滅的な損害を受け、目的地のウラジオストックに辿り着いたのは巡洋艦1駆逐艦2の合計3隻と惨憺たる状況となる。
連合艦隊は水雷艇3隻を失っただけで文字通り完全勝利となった。

幻の丁字戦法
日本海海戦は丁字戦法による勝利だったのか?最初から丁字戦法を目指したのか?それとも同航戦を目指したのか?議論が尽きていない。
だがあえて丁字戦法は幻だったと言う視点で見て行きたい。まず秋山真之が立てた七段備の戦法では
第1段.駆逐隊・水雷艇隊が全力で襲撃
第2段.主力艦による正面攻撃
第3段.駆逐隊・水雷艇隊の夜間攻撃
第4段.主力艦による敵残存部隊の追撃
第5段.駆逐隊・水雷艇隊の夜間攻撃
第6段.主力艦による敵残存部隊の追撃
第7段.第2艦隊がウラジオストック港口に水雷を敷設しこれに残存部隊を追い込む
ここで丁字戦法に関係するのが実は第1段で黄海海戦の際、敵に丁字戦法をかわされて失敗した事により秋山は駆逐隊・水雷艇隊による連携水雷(機雷)の直前敷設により敵の進路を妨害し、艦尾方向に逃げられない様にした上で丁字戦法を行うつもりだったが天気晴朗ナレドモ浪高シの電文でも分かるように当日は白波が立つ荒れ模様のため、駆逐隊・水雷艇隊が一緒に行動する事も、ましてや連携水雷を敷設する事も困難な状況で東郷長官は第1段の戦法の中止を決めた。
この事により丁字戦法を実施する事が難しくなった。そして、松村龍雄副長が宮中に提出した回想録では「敵と1万メートルの距離で反航戦にするか同航戦にするかの議論が起こった。進路を転針すると多大な損害を受ける恐れがるので反航戦(敵とすれ違いで砲撃する)にしたのち好機を待ち敵を追撃する論とそのような事をすると敵を逸する恐れもあるので是が非でも同航戦(敵と平行に進みながら砲撃する)にすべき」との議論があったとされる。
さらに回想では「反航か同航か定まらない内では射撃命令を下す訳もいかず砲術長の安保少佐は大いに焦慮し、各砲台でもどうして良いか当たりがつかない。その内とにかく同航に定まり三笠が取舵に大角度の転針を行った時には8,000メートルの近距離になった」
この回想では丁字に関してはまったく語られず、転針は敵の先頭を圧追しつつ同航戦で行う事。そして敵を撃滅するにはこのオーソドックスな戦法以外なかったとされる。

バルチック艦隊の敗因
よくバルチック艦隊司令長官のロジェストウェンスキー中将は愚将として語られる事が多いが、彼に全ての責任を負わせるのは少し酷である。
大きな要因の一つにはあまりにも長い航海だった。1万8千浬、半年にも及ぶ長い航海。喫水の深いボロジノ級戦艦はスエズ運河を通ることができずアフリカ喜望峰を大きく迂回しないといけなくなった。またイギリス及び日本の外交圧力により、多くの港で泊地として利用ができなかった事や石炭の補給も手作業で将兵を苦しめカムラン湾出航後はウラジオストクまで寄港できる港がないことから、各艦は石炭を始め大量の補給物資を積み込んで重量オーバーと船についた貝やフジツボなどによる速力の低下。喫水線の減少、復元力の低下などを招き、あっけなく沈む船もあった。
訓練不足と艦隊編成の不備で水雷艇を追い払う駆逐艦が少ない事で日本の水雷艇の夜襲を極度に恐れた。その事によりイギリス漁船を日本の水雷艇と誤認し撃沈したドッカーバンク事件を起し、イギリス世論の激高を招き、多くの妨害を受けることになる。また足の遅いネボガドフ支隊の到着を待つ事により足止めをくらい速力・戦闘力の低い旧式艦はバルチック艦隊の足かせとなる。それと士気と練度の低さがある。特に旅順艦隊が撃滅されると日本艦隊への恐怖を増大させ、下級士官及び水兵の練度は特に低く、被弾した時に何をしたら良いのかわからずなす術もなくただウロウロする水兵が多くいた事は緊急時に何をしたら良いのか理解していない事を意味する。
(降伏した戦艦アリョールの惨状 下瀬火薬により上部構造物は徹底的に破壊されている)
日本側に目を移すと、1904年(明治37年)12月11日に203高地を奪取した乃木第3軍の28糎榴弾砲により旅順残存艦隊の壊滅が確認され連合艦隊は艦隊の修理・整備を行うことが出来、乗組員の休養および訓練が十分に行え士気も高かった。その為連合艦隊の砲撃の精度が高く発射速度もバルチック艦隊を上回っていた。
そして決定的だったのが下瀬火薬の存在である。明治21年海軍三等技手の下瀬雅允が開発した新火薬で従来に比べ爆発威力がはるかに強く衝撃に過敏で敵艦の欄干や曳網に触れただけでも炸裂し猛烈なる火焔を発し、たちまち艦上が焦熱地獄とかし、早々に敵艦の戦闘力を奪うことができた。兵器の性能・将兵の士気と練度が日露ではあまりに違いすぎた。この事を一番理解していたのはロジェストウェンスキーだったのかも知れない
戦争の終結
艦隊決戦に勝利した日本だが満州方面ではある程度の勝利は収めたが、ロシア極東軍に決定的打撃は与えていないばかりかロシアは増援部隊を続々と送り込んでいる。一方日本軍は常備軍はもちろん、予備も後備も召集し財政的には破綻寸前で、もはや戦争の継続は困難な状況になった。
ロシアはもともと陸軍国なので海軍を失っても決定的な要因にはならないが国内の革命機運が高まり、こちらも戦争の継続は望まない状況になった。1905年6月9日アメリカ・ルーズベルト大統領の仲介により講和行われる事となり、日本は大幅譲歩をおこない1905年10月14日ポーツマス条約が批准され国家存亡をかけた日露戦争は終結した。日本軍は死傷者23万人の多くの犠牲を払ったが、朝鮮半島の権益確保と南満州に足場を築き、大陸進出の野望を大きくさせ、その後日中戦争・太平洋戦争と破滅の道に突き進むようになった。
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