三菱 一式陸上攻撃機11型 山本長官機 Mitsubishi G4M Type1 Model 11


作品は第705航空隊所属の一式陸上攻撃機で山本五十六連合艦隊司令長官が乗り一路バラレを目指していたが・・・
昭和18年4月18日山本五十六連合艦隊司令長官がアメリカのP-38ライトニングの襲撃を受け、機上戦死した「海軍甲事件」の一式陸攻と山本五十六と言う人物に焦点をあて、見ていきたいと思います。








艦隊決戦に先立ち敵の艦隊を迎撃するため、陸上基地より発進し雷・爆撃を行う長距離攻撃機が必要で一式陸上攻撃機は非常識と思われた海軍の要求を見事に答え1941年(昭和16年)4月に正式採用された。航続距離は6,056kmと4発重爆並みになっている。しかし長大な航続距離を確保する為主翼内側がそのまま燃料タンクになっており、6,000リットルの大容量燃料が積み込まれている。大量の燃料は被弾発火対策を困難としすぐ火を噴く事から「ワンショット・ライター」と連合軍パイロットからあだ名されるほど脆弱な機体となっている。


一式陸上攻撃機 11型 要目・性能
全長:19.97m
全幅:24.88m
全高:4.90m
発動機:三菱 火星11型×2
離昇出力1,530hp
自重:7,000kg
最大速度444km/h(高度4,200m)
上昇率:6,000mまで7.2分
実用上昇限度:9,220m
航続距離6,056km
武装:20mm機関砲1門・7.7mm機関銃4挺

山本五十六連合艦隊司令長官
(ラバウルにて壇上にあがり搭乗員に訓示する山本長官)
山本長官を語ると、文字だらけになって収拾がつかない状態になってしまうので簡単な経歴と海軍甲事件に焦点を当てる事としたいと思います。
明治17年(1884年)4月4日新潟県長岡で生まれる。長岡藩士高野貞吉の六男で生まれた時の父親の年齢が56歳だから五十六と名づけられた。
その後海軍兵学校32期生として明治37年11月卒業し少尉候補生となる日露戦争の時装甲巡洋艦「日進」に配属され日本海海戦に参加する。その際敵の砲弾により左手の人差指と中指を失うなど重症を追う。
大正4年に高野五十六は旧長岡藩家老の家柄である山本家を相続し山本五十六と名乗る。
大正8年にアメリカ駐在しアメリカの国力・工業生産力を目の当たりにした。その後大正14年に霞ヶ浦航空隊副長、昭和3年空母赤城艦長・昭和5年航空本部技術部長・昭和8年第一航空戦隊司令官・昭和10年航空本部長などを行い、航空畑を進み日本の航空技術発展に尽力した。
アメリカの国力を知る山本五十六は日独伊三国軍事同盟の締結に対し、海軍大臣米内光政・軍務局井上成美らとともに反対し命を狙われ、山本の暗殺を恐れた米内は昭和14年8月30日連合艦隊司令長官に山本五十六を就任させる。
その後対米戦争の準備を行うことになったが、当時の総理大臣であった近衛文麿に「初め半年や1年の間は随分暴れてご覧に入れる。然しながら、2年3年となれば全く確信は持てない」と語り、戦争回避に努めるように話すが太平洋戦争ではこの話の通りの展開になり、山本が恐れていた日米の国力の差がはっきり現れた事になる。
そして帝国海軍が長年立てた日本近海での艦隊決戦構想を捨て、ハワイ真珠湾で航空戦力を持って敵の主力を叩くという当時としては奇策に打って出た。この事が海軍甲事件の時にヤマモト憎しの感情を生み復讐作戦となっていく。
・・・簡単に経歴を書くつもりが随分書いてしまいました。(笑
山本長官機作成
作成したキットには山本長官も副官も当然付いていないです。操縦員もチャッチイ操縦者2人のみで、各銃座の搭乗員も付いていないので1/72アメリカパイロットフィギュアを加工して作りました。

窓枠があると見にくいので外した写真を載せました。操縦士は二人、機長の小谷 立飛行兵曹長と副操縦士の大崎 明春飛行兵長、副操縦士が機長に指差しで何かを伝えている。その後ろで敵機の機銃弾の被弾により指揮官席に座り軍刀を握り締めやや前かがみで目をつぶる山本長官
と長官のそばに駆け寄り心配そうに見守る副官の福崎 昇中佐の姿を作りました。

側方機銃は7.7㎜機銃を使用して射撃窓は水滴型風防を採用して戦闘時は風防後半分を取り外し射線を確保する。
銃架にセットした7.7㎜機銃は機首側に60°、尾翼側に90°の射線を確保できる。またもう一人側方射手は敵弾を受けて倒れているのだが、さすがにこれは暗くて写真を撮れませんでした。


尾部20mm機関砲射手は敵の銃撃を受け仰け反っているおり尾部銃座防風には血痕が飛び散っている。一式陸攻で最も火力の高い尾部20mm機関砲は真っ先に狙われる個所と思い被弾した様子を再現。
また写真の様に尾部風防はカットしている。本来だと機体ラインに沿って流線形なデザインの風防になっていたが、これが使い勝手が悪いことが実戦で分かった。上下方向に細いスリットがあり、そのスリットに沿ってしか銃身を動かせない。左右の標的に対しては風防全体を回転させる事により射撃が可能になるが、その操作が手間になり、特に米軍機の様な高機動の敵を捕捉しにくいため、現地で風防を半分カットした状態で運用している。

機体後方上から見た写真。操縦席後方にある情報機銃射手の姿が確認できる。また右エンジンと山本長官の後ろの機体にも被弾している様子がわかる。

山本長官の死の謎

山本長官戦死の場面の映画やドラマは何度も見ました。「海にかける虹 山本五十六と日本海軍」は1983年テレビ東京の正月の12時間ドラマで山本長官役の古谷一行さんが銃撃を受けて後ろに仰け反るシーンが印象的で顎に銃創の痕があったことをはっきり覚えています。子供のころビデオに撮ったのを何度も繰り返し見たのですが、先日そのビデオを探したのですが残念ながら消しちゃったみたいです。(号泣
映画「連合艦隊」では山本長官役の小林桂樹さんが手から血を流しながら軍刀を握り締めているシーンや、映画「零戦燃ゆ」では同じく丹波哲郎さんが背中から血を流しているシーンがありました。さて実際はどうだったんでしょうか?
田渕義三郎軍医の遺体検死記録によると「死因は戦闘機機銃弾がこめかみから下顎を貫通した事、背中を貫通した事」とあるが、P-38の12.7mm機関銃が仮に当たったとしたら下顎はそっくり無くなっていてもおかしくなく、その時の血はかなりガラスに飛び散っているはずだが護衛零戦隊の柳谷飛兵長の証言では「泰然自若たる姿で瞑目しているようだ。長官は既に絶命しているのではないか?いずれにしても身ゆるぎ一つしない」とある。もし検死通りであれば、死んでいる姿は一目瞭然の気もする。
 山本長官の遺体を最初に発見した第6師団第23連隊の証言では「山本長官の遺体は座席と共に放り出されていた。そして軍医長が地を這って近寄ろうとして絶命した痕跡を残していた」という。また、他の遺体が黒焦げで蛆虫による損傷が激しいにもかかわらず、この2名だけは蛆も少なく比較的綺麗な形で残っていたと言う。この事から山本長官はしばらく生きていた可能性もある。もしかしたら死因は内臓破裂で、しばらく生きていたが、大本営発表での「機上にて壮烈なる戦死を遂げたり」と言う事で検死を捏造した事も考えられるが・・・今となっては真実は闇の中にある。

山本長官の故郷にて

2011年夏に長岡の山本五十六記念館に見学に行ってきました。山本五十六元帥の資料などがあり中央には山本長官機の左翼が展示していました。館長さんが気さくな方で色々山本五十六元帥の話をさせて頂きました。写真撮影をお願いしたのですが、残念ながらお断りされました。その際、絵葉書の購入して、これをホームページで公開しても良いですか?と聞いた所「うーーん。許可は出来ないけど、その位は仕方ないかな」と、承認はされなくとも黙認して頂けるみたいでしたので絵葉書の写真を載せてます。ゴールデンウイークなどは混むみたいですが冬はお客さんが少ないらしいです。ご興味がある方は一度訪問されたら如何でしょうか?
クリックすると山本五十六記念館に飛びます。是非ご覧になって下さい
山本元帥のお宅訪問
山本五十六記念館のすぐ近くには山本記念公園があります。山本五十六元帥の生まれた家です。ちょっと2階は天井が低かったです。こちらは空いている時間なら誰でも無料で見学できます。山本元帥のご生家は1945年8月1日の長岡空襲によって焼失してしまい。この建物は復元されたものです。
山本五十六記念館で館長さんに「長岡は山本五十六元帥の故郷だから報復のために空襲されたのですか?」と尋ねたところ館長さんは「いえ、そんな事はありませんよ!元々空襲は人口密度を元に計画されていて、長岡は最初からリストアップされていました山本元帥が仮に長岡出身じゃなくても長岡は空襲されていました。」との事です。
山本長官の功罪


 たまに山本長官は知将だったか?愚将だったか?そんな記述を目にする事があります。否定的な意見には帝国海軍が長年築いた対米艦隊決戦思想を否定して航空機によるハワイ真珠湾空襲を行い、アメリカにいち早く航空機の重要性を気付かせ、工業生産力の差が出る国家総力戦に引きずりこまれた事を言うが、仮に従来の漸減決戦を行って日本が大勝利を収めても、アメリカは講和に応じるほど簡単な相手ではなく日本は攻勢出るほどの余力は残ってないと思われる。結局は資源地帯の防衛で手一杯になり、アメリカは工業生産能力をフル活動し、反撃に出る事が予想され、結果は同じだと思います。歴史を知っている人が後付の知識で批判するのはすこしフェアーじゃないような気がします。
これから起きる未来に対して決断をしないといけない立場の山本長官の苦悩は大きく国家存亡をかけた思いは今じゃあ考えられないですよね。少なくとも山本長官が最良の兵器と思っている航空機を使って、アメリカ主力艦隊を叩き、戦意を喪失させると言う考え方は間違っていないと思いますが、山本長官が考えるほどアメリカ人のメンタルはやわじゃなかったのが誤算だったんですかね?いづれにしても日米の基礎国力差が大きいので、軍令部が考える南方資源地帯の確保と長期持久体制の戦略では勝ち目が無かったと思います。
アメリカ人はただ復讐と言うだけでこの作戦を行ったのではなく、山本長官が死んだ後、優秀な人材が現れる事に警戒したが山本を超えるのは山口 多聞だけで、彼は既に戦死しているのでその心配はないと結論付けた。またこの作戦を行う事によりアメリカが日本軍の暗号を解読している事を覚られるリスクがあった。そのリスクを覚悟してまで実行するという事は、つまり対戦国としては山本長官の評価が高かった事が証明されるエピソードであった
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