長野の旅その4 激戦地 川中島古戦場 八幡原史跡公園

2013年9月14日の3連休に長野市の歴史めぐりの旅の第4弾です。
さて妻女山を降ったモッキーが次に訪れたのは川中島古戦場 八幡原史跡公園
信玄と謙信の一騎打ち像があるので是非一度見ておきたかったですね!歴史的な話を交えながらちょっと紹介してみます。

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12,000平方メートルの芝生公園や自然石を配した小川や池などがある。歴史に関係ない人でも家族連れでのんびり出来そうです。

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史跡 川中島古戦場 八幡社の鳥居をくぐってお参りしてみましょう。
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川中島大合戦図があります。ちょっと歴史について紹介してみます。永禄4年(1561年)9月10日
武田軍2万と上杉軍1万3千で数の上では武田軍が有利だった。武田軍は部隊を二つに分け、1万2千の別働隊は妻女山の背後から襲い上杉軍を八幡原に追い出す。
武田信玄率いる本体8千は八幡原に布陣しこれを挟み撃ちにする作戦を立てた。これを『啄木鳥戦法』としたが、その動きを察知した上杉政虎(以降謙信と言うね。そのほうがわかりやすいので)は妻女山を降りた。
この時点で上杉軍は1万3千で武田軍は8千と数の上で逆転してしまう。
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謙信の猛攻
深い霧が立ち込めている朝、卯の刻(午前5時から7時)に信玄が予想していなかった事態が発生した。
妻女山にいるはずの上杉軍が突如襲い掛かってきた。だが両軍とも戦闘態勢に入る前の予期せぬ遭遇戦の為、混乱が生じた。上杉軍は車懸りの陣で攻撃を仕替け、武田軍は鶴翼の陣で迎え撃った。
先ず越後随一の猛将柿崎景家と飯富昌景の隊との間に戦端が開いた。
上杉軍各隊が次々と攻撃をしかけ武田軍は右翼・左翼・本陣と分断されてしまった。
武田左翼は信玄の弟の武田典厩信繁は、直江・村上両隊の猛攻に晒され敵中に孤立してしまった。山本勘助を援軍に差し向けるも逆に上杉軍に飲み込まれ、典厩武田信繁と山本勘助は討ち死となり左翼集団は総崩れとなった。
崩壊しつつある左翼集団を援護する為に本陣を南側に移動させた為、北側に取り残される形になった嫡男武田義信の右翼隊は本庄・色部の各隊に攻め込まれる形となる。
内藤修理亮昌豊・諸角豊後守虎定・初鹿野源五郎などが必至に防戦し南下する本陣を追って腹背の敵を排除しひたすら南に突撃する。
上杉方兵力の大半を引き受けた右翼隊も圧倒的兵力差に蹂躙され諸角豊後守、初鹿野源五郎が義信の盾となり討ち死にし、右翼隊も崩壊してしまう。
左右両隊が大損害を受け崩壊している状態で、信玄の本陣は完全に敵中に取り残される形となり、信玄の命運も尽きるかと思われた。
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信玄の反撃
巳の刻(午前9時~11時)事態が急変する。妻女山を降った別働隊が山麓の渡しを突破して武田軍左翼を攻撃中の上杉軍の背後から襲いかかった。次々と上杉軍の守りを突破する別働隊は上杉主力の背後に迫った。
戦況の不利を悟った上杉謙信は撤退を即座に決めたが、上杉軍は後退戦で損害を急増させ申の刻(午後3時~5時)に善光寺付近まで退いた。
2平方キロメートルの狭い場所で3万3千に及ぶ将兵が9時間にわたり激闘を繰り広げ20,000人の武田軍の戦死者は4,630人(損耗率23%)・13,000人の上杉軍は
戦死者3,470人(損耗率27%)で傷を負ったものは死者数と同じ位の数だと推定すると、死傷者は全軍のほぼ半分と思われる。天下分け目の決戦の関が原の戦いでは東軍の損害は4%ととどまると言われる。今回の川中島の戦いは血で血を洗う凄惨な戦いだと言えよう。
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執念の石
武田本陣に切り込んだ上杉謙信の太刀を信玄が軍配で振り払ったという話は有名ですがあまりにも出来すぎた話なので創作と言う見方も多いのですが、絶対にないとは言い切れないですね。
信玄の窮地を救ったのは家臣の原大隅守虎胤で信玄の槍で馬上の謙信を突いた。外れた槍が馬にあたり驚いた馬が跳ね上がってその場を狂奔し去った為に信玄は虎口を免れることになった。
しかし謙信を取り逃がした原は無念の思いで傍らにあったこの石を槍で突き刺した。そう言い伝えがある石です。

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最後に八幡社にお参りし旅の安全と家族の無事をお祈りしました。
ちなみに神徳は必勝、厄除、交通安全、安産、育児にあるそうです。良かったらのんびり八幡原史跡公園にきてみたら如何ですか?
参考文献:歴史群像(学研)2004年4月No.63 霧中の大遭遇戦第四次川中島合戦
:NHK 大河ドラマ「武田信玄」

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