※2017年5月末でリニューアルに向けて史料室運営が休止されています⇒2020年1月大江時計台航空史料室に展示物や所蔵品を移設
大江時計台航空史料室
2015年5月21日 愛知県にある 三菱重工業 名古屋航空宇宙システム製作所の史料室に見学に行って来ました。
三菱重工業と言えばあの有名な三菱グループの航空機やロケットなどの開発製造を手がけ
兵器製造では戦闘機や戦車・護衛艦を作っている日本有数の軍需企業です。
そんな事は分かっちゃいたんだけど・・・
正門から入って駐車場に車を止めて、CANON EOS 7D Mark IIを片手に歩いていたら、早速守衛さんから呼び止められました。
守衛さん:あのぉ~ この会社は扱っているものが・・・あれ!なので・・・カメラはバックにしまってもらって良いですか?変な誤解を受けてしまうと申し訳ありませんので・・・・
さすが国防を担う軍需企業!セキュリティは厳重ですね・・・素直にカメラをしまって史料室に向かいました。
史料室に入っていきなり零戦・・・モッキー的にはレイセンと言わせていただきます!
あれ?写真撮っているジャン!とお思いの方はご安心を!史料室は撮影OKです
ジャンジャン撮影して下さい。
復元機は『零式艦上戦闘機 五二型甲』 三菱4708号機
発見された場所はミクロネシア連邦ヤップ島
絶対国防圏と称した中部太平洋マリアナ諸島にアメリカ艦隊が侵攻する可能性が極めて高くなった昭和19年5月ヤップ島の零戦・彗星など稼動出来る機体は全てパラオ島に集結し、満足に戦えない機体はこのヤップ島に放置されてしまった。
1983年(昭和63年)にヤップ島に放置され朽ち果ててしまった機体の一部を日本に持ち帰り2年の歳月をかけてこの小牧南工場第5格納庫にて復原され、展示機として蘇った。
さすがに全ての部品で復原したわけじゃなくて上の図の赤く塗られた部品を使って復原されました。
以前は操縦席も見れた様だけど、復原されてから既に25年経ってしまって、かなり機体が老朽化し中身がボロボロになって振動も良くないという事で、残念ながら操縦席を見学する事が出来なくなってしまいました。
零式52型の特徴である推力式単排気管がカウリングの後ろにあるのがわかります。
推力式単排気管により、推力が増し最高速度及び上昇力が向上した。
翼手前にあるのがピトー管でこれは機体の速度を図る装置。
その奥が20mm機銃・・・正式には九九式二号四型20mm機銃でこれは52型以前の一号機銃に比べて銃身が伸びて、初速が一号の600m/sから750m/sに向上した。
初速が速くなるということは、弾道が下がりにくく、射程も伸びて命中精度が上がることを意味している。
しかもドラム弾倉からベルト式に変えた事により携行弾数がそれまでの100発から125発まで増加した。
零戦の大きな特徴として、開戦時の21型からこの52型まで1000馬力程度の栄エンジンで頑張って飛んでいた。
この非力なエンジンで時速500km以上を出す為には機体を軽くしないといけない、その為、アルミに亜鉛やマグネシウムなどを混ぜて作り軽量と強度を保つ超々ジュラルミンを採用して、軽量化を図り重量も1.8tと乗用車並みの重量に抑えています。
しかし徹底した軽量化は運動性能を向上させたが、逆に防弾燃料タンク・防弾板・防弾ガラス・自動消火装置と言った防御力は不十分で被弾に弱く、また急降下性能に劣る零戦は重量級の米軍機の一撃離脱戦法で攻撃後急降下する米軍を追撃する事が出来ず一機または一機と落とされていく。
零戦の落日
零式艦上戦闘機4708号機が生産された昭和19年は日米の戦力差がはっきりと分かれ、質・量とも日本軍を凌駕していた。
この最新鋭の零式艦上戦闘機 五二型もグラマンF6FヘルキャットやF4U コルセアと言った2000馬力級の戦闘機と比べるともはや時代遅れで、かつての栄光はもはや過去のものとなり、しかもガダルカナル攻防戦以降、歴戦の搭乗員の大半を失った日本海軍には、まともな戦すら出来なくなった。
昭和19年6月19日から始まったマリアナ沖海戦では『マリアナの七面鳥撃ち』と揶揄されるほど、一方的に打ち落とされ日本海軍の花形である空母機動部隊とその搭乗員は壊滅的打撃を受け、制海権・制空権は完全にアメリカ軍の手に陥ちた。
この機体をご覧になられる方はあまりいないのではないでしょうか?モッキーも文献で知ってはいたのですが、実際に機体を見るのは初めてです。
この機体にはプロペラがありません!ロケット戦闘機『秋水』です。
このロケットエンジンを積んだ局地戦闘機『秋水』の原型はドイツ空軍のメッサーシュミット Me163『コメート』です。
Me163は1943年実戦投入され、圧倒的な上昇力と速力に連合軍は驚愕したが、じきに航続距離が短い事に気づいた。ロケット推進剤を使い果たしたら、滑空しているグライダーと同じで、着陸態勢や着陸後は格好の標的となった。
また航続距離も短い事で爆撃機編隊が発進基地を迂回するようになり、迎撃機を発進する事が出来なくなった。
ドイツからMe163の資料を潜水艦に積んで日本に向けて航行中に連合軍に撃沈され、詳細な資料が届かなかった。
しかし犬猿の仲とされる海軍と陸軍が共同製作体制を作り、三菱に簡単な図面で作成する事を指示し僅か11ヶ月で作り上げた。昭和20年7月7日に2機が完成し試験飛行で1機がトラブルで墜落してしまい、もう1機はアメリカ軍に接収され終戦後には日本にはこの機体が残っていなかった。
高度1万メートルまで通常のプロペラ機だと40分かかるが、この秋水はたったの3分でその高さまで到達する。
三菱に対して軍部はこの機体を1000機作るように指示があった。
しかし終戦間近の日本は大量に飛行機を作る為の物資が乏しく、燃料タンク付近は金属だがそれ以外は木製出来ている。
秋水が離陸した時にはタイヤは切り離して、滑空後着陸する時には胴体下部についているそりで着陸する仕組み。
秋水の燃料は過酸化水素に、メタノール ・水加ヒドラジン・水の混合液を化学反応させる仕組みなんだけどこの燃料が爆発しやすく、しかも人体をも溶解してしまうほどの危険な燃料で取り扱いが非常に難しかった。
ちなみにこの後姿の方がこの史料室の方で午前と午後の決まった時間に見学者に零戦と秋水を中心に説明をして頂けます。
昭和27年横浜の日本飛行機の格納庫跡を掘ったらこの機体が出てきた。それが明るみになったのは平成になった頃だがもうその頃には木製部分はほとんど腐って無くなっていた。しかしアメリカに接収されて残った機体の寸法などを図り平成8年から平成14年の6年かけて復原をした。
しかし、昭和20年の時点で試験飛行もまともに出来ていない状態で、仮に終戦が伸びたとしてもとても1000機揃えるのは困難で、燃料の取り扱いも難しく、ましては制空権も連合軍に握られている状態でとても活躍できたと思えない。
仮にこの機体が実戦投入されても戦局をひっくり返せる事にはならないし、もう時すでに遅し感タップリと言った感じですね。
でも日本の航空機の歴史としては貴重な機体と言う事には変らないので大変興味深く見学が出来ました。
MU-2ビジネス機は戦後初めて作った国産飛行機で初飛行は1963年9月14日で生産数762機のベストセラー機となった。
操縦席には実際に座れます。計器がいっぱいあって、パイロットって大変なお仕事なんですね!って改めて実感してしまいます。
この手の小型機の割には室内容量が大きくて結構ゆったりと座れる感じはします。
最初はアメリカでの販売も苦労をしたようですが、零戦を作った三菱のビジネス機として注目され、しかも500km/hを越える高速巡航性能、航続力、悪天候下でも良好な操縦・安定性等が好評で高い評価を受けた。自衛隊の作戦機としても採用され2008年まで使われている。
零戦を生み出した堀越 二郎氏と航空本部長時代の山本五十六中将の写真
三菱は零戦以外にも多くの機体を生み出した。左が局地戦闘機『雷電』右が一式陸上攻撃機
雷電は零戦に積んでいたエンジンが1000馬力と力不足の為、一式陸上攻撃機に搭載されている火星エンジン1800馬力が採用され、機体が零戦の様にスマートではなく、むしろ米軍機に近い機体となった。
一式陸上攻撃機は双発爆撃機としては当時非常識ともいえる長大な航続距離と水平爆撃・雷撃が出来る長距離攻撃機として設計生産された。ここでも零戦と同じように海軍の無理な要求を満たす為、防御力は重要視されず、アメリカからはワンショットライターと言われるほど一掃射ですぐに火を噴いて撃墜されてしまうほど脆弱な機体となった。
写真は烈風 工場の試作中の写真と飛んでいるのは写真は合成のイメージかな?実際にとんでいるのか?よくわかりません。
昭和17年零戦の後継機として海軍から三菱に開発指示が下り、高い空戦能力と時速640kmの高速性のと言う相変わらずな過大な要求を満たす為、2000馬力級誉エンジンを採用する事になったが、戦時中で零戦と一式陸上攻撃機の生産で手一杯な三菱はなかなか開発が進まず、開始から2年がたった昭和19年に初めて初飛行を行う。
しかし初飛行では性能が低く、いったん開発は中止となったが、三菱が独自に開発を進め、要求通りの能力を出す事が出来たが時すでに遅く、B-29の爆撃により三菱の工場は壊滅状態となり、僅かな生産ラインも紫電改を優先したので結果としては開発中に終戦となり、完成する事がなかった。
左はCCV研究機とは運動能力向上機の開発を目的として昭和54年から昭和59年まで研究開発された。CCV研究機は姿勢を変えずに上昇降下ができたり機体を傾けないで進路を変更できたりする高運動性能を発揮した機体です。
F-16戦闘機をベースとしてCCV研究機T-2CCVにより蓄積された国産技術によるデジタル式フライ・バイ・ワイヤ(FBW)で飛行制御を行うF-2戦闘機として現在も活躍している。
建物の外に出ると往年のジェット戦闘機も展示されています。
ノースアメリカン F-86セイバーは1947年10月に初飛行したが、当初は日本の対抗機として1944年に計画が立ち上がったが日本は終戦となり、活躍の場がなくなったが、1950年に発生した朝鮮戦争により中国義勇軍のMiG-15戦闘機の対抗機として撃墜数800機以上と活躍した。
展示されている機体はF-86F(旭光)で三菱がノースアメリカンとライセンス契約を行い、300機生産され、その中の国産2号機が置かれています。
F-86セイバーはゴジラ映画で登場して、ゴジラ相手にロケット弾を発射するシーンを子供ながらに興奮してみていました。
こちらの機体はF-104J(栄光)はマッハ2級の高速戦闘機で、当時これ以上の速度を出せる戦闘機は出ないと見られ最後の有人戦闘機とも言われました。
細長い機体は速度を上げるには適していたが、旋回性能はあまりよくなく操縦の難しい機体となった。
F-104はガメラ映画でギャオスの発する超音波メスで機体が切断されるシーンを子供ながらに興奮してみていました。また怪獣映画ですか?(笑
おお!この機体はT-2 超音速高等練習機 しかも試作初号機とは大変珍しい
設計が昭和42年でこの機体が初飛行したのが昭和46年とかなり古い機体です。
優れた機動性はブルーインパルスの機体として1995年まで活躍した。
またこの機体をベースにF-1支援戦闘機を作り上げたが、攻撃機としては物足りない性能となった。
この機体はHSS-2 対潜哨戒ヘリコプター(ちどり)はアメリカのシコルスキー社と提携して昭和39年から平成2年までこの工場で167機生産されました。かなり長い年月活躍した機体なのですね。
友人のお土産のMRJの帽子・マグカップ・コースター・ブルーインパルスの帽子を買って帰りました。
他にも欲しいものがいっぱいでしたが、カードが使えなく現金のみなので手持ちが心配なのでこのぐらいにしておきました。
売店では、気さくなおばさ・・・・いや!おねーさん・・・が楽しく話して色々お勧めしてくれる!とっても商売上手!
見学できる日は毎週月、木曜日 9時00分~15時00分までの間ですが、工場がお休みの日も見学できません。また見学は事前予約が必要ですので、訪問前には必ず電話を入れて予約をしましょう
日本の航空機産業を支えた三菱の貴重な資料や歴史のある飛行機が見れます。飛行機に興味のある人は是非見学してみましょう。
名古屋航空宇宙システム製作所史料室
所在地 :〒480-0293 愛知県西春日井郡豊山町豊場1
電話:0568-28-1113
「c 2015 Google, 地図データ c 2015 Google, ZENRIN」
ちょっと入り方がわからないのでグーグルマップを元に解説。
正門玄関を入ると左手に史料室専用駐車場があります。そこに車を止めて玄関右手の建物沿いに歩いていくとインターフォンがあります。そこでインターフォンで史料室の人と話せます。特に施錠されているわけではなくて、そのままは入れます。あとは道沿いに歩くと入り口があります。
この内容をYouTubeに動画をアップしましたのでこちらもご覧ください